人間の中の化け物:劇団四季『ノートルダムの鐘』
2017年の観劇始めは劇団四季の「ノートルダムの鐘」になりました。
当然チェックしたいミュージカルの新作ではあったんですけど、さらに主演のキャスト候補1番に海宝くんがあがったので、テンションがあがります。最初の友の会の先行でチケット取りましたというか、四季ヲタの友人に一緒に行こうぜと珍しくこっちから声かけて取ってもらいました。(現在、友の会入ってません)
海宝君がレミゼに出ることは分かってるわけで、さらに1stで名前が挙がっているので、3人の主役(カジモド)のうち、最初に二人でまわして、海宝くんのレミゼ稽古が始まる頃に3人目も登板だろうなというところまでは完璧に予想できたのですが、正月はさすがにオール四季キャストでいくかな~って思って、1月2日にしたんですけど、残念ながら海宝くんではなかったw
でも、そんなことは全く問題ないくらいに、作品が素晴らしかったので、前置きはここまでにして、作品の感想を。
結構ネタバレしますので、ご注意ください。
まず、ストーリーは映画版そのものではなく、原作に寄せている印象です。
ちなみに私は恥ずかしながら原作は読んでいないのですが、どうしてそう思うかと言うと、アニメ映画版より落ち着いた作りになっている上に、どこかレミゼというかユゴーの香りを感じたから。
ディズニーミュージカルはライオンキングやアイーダは好きだけど、アラジンがどうしても好きになれなかったので、どうかなぁと思っていたのだけど、予想以上に良かったというか、見ごたえがあった。
印象的なセット
セットは緞帳は降りておらず、開演前から見えている状態。まるでチェスを想起するような白黒のタイルのような床、奥にはステンドグラス、左右には聖歌隊が位置する二階の立てセットで、大きなセット転換はなし。
そのかわり、アンサンブルの人たちを中心に劇中、椅子や手すりが激しく動きまわるので、白黒のタイルは立ち位置のシールなど無粋なものを貼らずにわかるようにすると同時に、白か黒か、人間か化け物か、善か悪かなどを象徴するものかもしれない。
舞台は基本的にセット転換がなく、シンプルだが、その中で、効果的に出てくる大きなセットがもう一つ。そう、鐘です。ノートルダムの「鐘」。
カジモドはノートルダム大聖堂の鐘つき男なので、その鐘がセットいっぱいの巨大なサイズで天井から出てくる。決してキラキラぴかぴかしたものではない。だけと、本当に大きく、鐘が鳴り響くシーンは荘厳な雰囲気に包まれます。
聖歌隊とアンサンブル
メインキャストは5人の舞台です。それ以外の人物は通し役ではなく、アンサンブルの人たちが場面ごとに演じ分けます。アンサンブルの人たちは聖歌隊と同じ、ローブ姿で時にストーリーテラーとなり、時には大聖堂の中の主人公カジモドの友人である石像にもなるし、時にはジプシーの仲間たちにもなる。
大劇場作品でアンサンブルの人たちが何役もこなすことは当たり前なんだけど、それをほとんどはけることなく、板の上でこなす。これがフィクションだということが目に見える形にしていることがとても面白い。そして、色々な人間たちがいることと、カジモドやフロローも同じ人間であることを強調する、演出の一つなんだろうなとおもいます。
アンサンブルを合わせても役者の人数はさほど多くはない本作にはさらに、聖歌隊(クワイヤ)がいます。彼らが大ナンバーのコーラスはもちろん、作中の大聖堂で響く聖歌を歌うのだけど、これが美しい。歌われる聖歌はほぼ「キリエ」というフレーズです。主よ憐みたまえという意味かな。物語全体はもちろん、カジモドの存在、そしてフロローのこともさしているのだと思う。大ナンバーでは迫力の影コーラスになるので、少人数ミュージカルなのに、ハーモニーの分厚さも作品の魅力だと思う。
フロローという男
レミゼのバルジャンと対比するジャベールと同じく、フロローという男も単なる悪役ではない。このあたりもユゴー作品の人間の描き方なのかなぁ。アニメより、悪役という印象を受けない。よりフロローの葛藤が見える演出に思います。
誰の中にも本来、フロローがいて、エスメラルダがいて、善悪だけで判断できないこともあるし、人の考え方が変わることもある、それが人だと思うけど、フロローという人は善悪でしか判断できない。エスメラルダに自分のものになれと言うだけなら、普通の悪役なんだけど、エスメラルダを欲しいと思ってる自分のことも許せてないんだよね。。
ちなみに彼の最後のシーンはめっちゃレミゼのジャベールのオマージュな感じしますね。
カジモドという化け物
この舞台の演出で一番面白いのは主人公である、ノートルダムの鐘つき男、カジモドの表現。カジモド役の役者は「カジモド」としては出てこず、そして最後は「カジモド」の姿をやめて物語を終える。
爽やかな印象の青年が舞台のセンターに立ち、顔を汚し、表情もゆがめ、背中を丸め、足元も内股になる。そうやってカジモドになるんです。喋り方もドモりだす。
しかし、歌うとその歪みがなくなる。これについては演出であると言及されているんですけど、歪みなく歌うときのカジモドの姿こそ、カジモドの中にある本来の姿でもあり、この物語の精神性でもあるのかな。
物語の最後、カジモド役の役者は背筋を伸ばし、汚していたメイクをとり、また綺麗な青年に戻る。その一方でアンサンブルたちは顔を汚していく。
ノートルダムの鐘は他のミュージカル作品、特にディズニーミュージカルと大きく違うなと思う部分があります。そして、それがこの作品が「演劇的」と呼ばれる部分なんじゃないかなと思う。
それはフロローもカジモドも、他のエネルギッシュな物語と違って、新しい世界に飛び出そうとか、冒険に出かけようとか、まぶしい恋に落ちたいとか、そんなこと一切思っていないところ。
フロローは別に好色でエスメラルダのような女性を常に手籠めにしているわけではないし、カジモドもあの日あのときまで外に出ようなんて思ってもいなかった。死ぬまで一人なのか、でも外に出るのは怖いなって思いながら、あの日まで来てしまった。
あれが頻繁にバレずに外に出て、多少とも外での遊びを覚えていたり、外に出ていじめられることが続いていたら、エスメラルダとの出会いはあそこまで劇的じゃないだろうし、そもそも出会わなかったかもしれない。
でも、人間、誰でも善か悪かのように二つの意見ではっきり言いきれるばかりじゃない。
カジモドだって、フロローに言われてここにいれば安全だと思う気持ちがあったからあの日まで聖堂の外に出なかった。だけど、その一方でどこかで外に出てみたいという気持ちも持っていた。
カジモドの醜さに驚き、石を投げつけた人たちだって、その直前まで皆で楽しく祭を過ごしていた人たちで。全員が酷い犯罪者のような心を持った人というわけではなく、あれが、ごく普通の「人」なわけで。
エスメラルダという存在は、王道ミュージカルのヒロインではなく、フロローやカジモド、フィーバスたちにとって、それぞれの立場で求める存在だったのかなぁ。
(フィーバスにとってはそれは「愛」かもしれないけど、カジモドの場合はそれは恋愛もののLOVEではないと思う)
内容のことばっかり書いちゃってるな。。音楽は言うまでもなく美しいんですよ。
音楽だけ聞いても素晴らしいし、この作品はもし音楽なしでも上演しても素晴らしいって言えるんじゃないかな。そういう部分が演劇的だと思うし、ミュージカルの一つの到達点として面白い。
ちょっと中途半端な感想になりましたが、一度では全部覚えきれないことも多かったので、また二回目を観ることができたら改めて感想を書きたいと思います。
個人的いちゃもんつけたいわけじゃないんだけど、一つだけ。
せっかく聖歌隊もいるのに音楽は録音なことが不満かな~。これだけの素晴らしい作品、素晴らしいコーラスなんだから生オケで聞きたいです。
で、今回は観れなかったですが、主役のカジモドはどちらも評判がよく、海宝くんも観たいなぁと感じてます。
しかし海宝くんは本当にこの世代では断トツの歌唱力と表現力を身に着けて、ちょっと並ぶ人がいない感じになってきちゃいましたね~。ただ自分自身で押し出す力は現在でもそんなにない印象なので(だからこれだけ大作の主演をやっても、よくも悪くも他の演目で脇で埋もれることもできちゃう)、やっぱり四季向きですねぇ~。
もういっそ、四季の作品で海宝くんがメインできそうなの全部出てもらいたいものですわ。